9時半起床。
冷凍ご飯,イカ黄金,エノキの佃煮,昨日の味噌汁の残りで朝食。
ドリップコーヒー1杯。
ぶらり途中下車の旅を見て,植木に水やり。
睡眠中のパルスオキシメーターのデータを見て,ちょっと落ち込む。
映画紹介,とうちゃこ。
新聞を読んで,ネットを見る。
昼食は,頂き物の奄美大島鶏飯にこれまた頂き物の柿半分。
ネットでいろいろ。
日が暮れてから,散歩に出る。
やたら寒くて体調が悪化しそう。
夕食の献立。
肉入り野菜炒め。ネギ,キャベツ,白菜,ナガイモ。塩,コショウ,砂糖,醤油,トマトケチャップ。
白菜の浅漬けサラダ。マヨネーズ。
エノキの佃煮。
鰻の蒲焼きについていたお吸い物。
3日間酒を断っている…。
NHKダメ自慢をちょっと見て,「二月の勝者-絶対合格の教室-」
そういえば,私も「中学受験」をしたんだよなあ。
60年近く前の話だ。
東横線の白楽だかどこかにあった日能研みたいなところに通ったこともある。
受けたのは創立10年くらいの中高一貫校で,当時から一応「名門」ということになっていたようだ。
男子校でそれなりのスパルタ教育だったのだと思う。
試験のたびにクラス全員の教科ごとの点数などが表にされて配られた記憶がある。
(エクセルもない時代だから担任はさぞかし大変だったろう。)
結局,父親の転勤で中学3年間しか通わなかったので以後の繋がりはまったくない。
年末に転勤の話を聞かされたときにはいささか戸惑った。
えっ,これから高校受験するわけ!?
たしかに中3の段階で高1までの学習をすませてしまうような学校だったから高校受験もお茶の子だろうと思いたいところだが,そう単純なものでもないだろう。
親子共々不安になって,落ちたらこのままこちらにいさせて欲しい,親戚の家に居候して通うからと校長に直談判してOKをもらったのだった。
もとよりこちらに残って大学を目指すことも考えたのだが,転勤先には公立高校しかない! ということは…,うふふ男女共学だぜい!,へへへ女子高生だぜい!という下心が上回った。
行き先は港町だから防波堤があるに違いない,そこに彼女と腰を下ろして青い空と白い雲,行き交う船を見ながらいろいろ語り合ったりしちゃうのだ。
とかなんとか夢見て受験することにしたのである。
(って,前に書いた気がする…)
しかし,現実は切ないものである。
試験会場を見渡しても,いがぐり頭の詰め襟ばかりでセーラー服が見あたらない。
合格者280人ぐらいのうち女子は10数人といったところだったと思う。
近くにあったもうひとつの公立高校にいたっては全員女子,そもそもが男子を受け入れる予定もないという信じられないような土地柄で,こっちの公立高校と同じように考えていた自分がバカだった。
まあ,1000kmも離れた土地の高校の情報など簡単には手に入らなかった時代だからなあ。
先に単身で赴任した父親がまわりから情報をもらってこの高校が一番だそうだからと言われるままに受験したというのが真相である。
この「一番」については,5歳下の妹が散々な目にあったということはつい最近になって聞いた。
我が妹50年目の告白である。
小5で転校したわけだが,事あるごとに教師からあのN高に合格した「超優秀なお兄さん」と比較され続けたのだという。
N高は県内でもトップクラスで地元では絶対王者,中学校では何人を合格させられるかが教師や学校の評価に繋がるということで,常に意識されていたということだ。
そんな絶対王者にえらく遠いところから来たお兄さんがあっさり入ってしまったというのだからよほどの秀才に違いない,それに比べてキミは…ということらしい。
妹もとんだとばっちりであった。
しかし,こういってはなんだがあのレベルの高校はどの県にもひとつやふたつはあって,私の中学も似たようなものだったから,田舎といっては失礼かもしれないが先生方もずいぶんと意識の狭い世界にいたものだなと今になって思う。
中学受験から話がそれた。
だからまあ中学受験の経験者ではあるのだが,その後は「普通」の高校生になってしまって,「普通」の人生を送ってきたというわけである。
あのまま一貫校に居続けたら人生どうなったかわからない。
というのはほとんど嘘に近くて,おそらくたいして変わらない人生を送ったんじゃないかと思う。
なんというか,環境によって人は変わるというけれど,自分はそんなに変わらないという気がするんだよなあ。
親には申し訳ないがわざわざ中学受験なんかしなくてもよかったんではないのという思いはある。
これは公立高校に移ったこととは関係なくそう思っている。
他の人はともかく,私自身に関してはそういうことだ。
だから,息子にも中学受験をさせようなんて思いもしなかったわけである。
余計なことを書きすぎた。
なんだかんだで2時就寝。
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